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福岡地方裁判所 平成7年(わ)770号 判決 1997年5月16日

主文

被告人両名は公訴事実全部につき無罪。

理由

第一  争点

一  本件公訴事実の要旨は、「被告人A’ことA、被告人Bは、共謀の上、第一 平成五年一一月上旬ころ、福岡県糟屋郡《番地略》所在のC’ことC方先路上において、同人方家屋四畳間等に向けて、所携のけん銃を用いて実包三発を発射し、同家屋外壁柱及び当て木等に命中させてこれらを破壊し(損害額一一万一〇〇〇円相当)、もって、他人の建造物を損壊し、第二 法定の除外理由がないのに、前記第一事実記載の日時場所において、前記けん銃一丁を、これに適合する実包三発と共に携帯したものである」というものであるところ、被告人Bが平成七年三月一七日、右事実について博多警察署に自首し、警察官が、平成七年三月二三日、C方を捜索、検証した結果、勝手口のガラス戸の腰板、窓ガラス(損傷部分にガムテープ貼付)、柱に貫通痕があることが判明し、勝手口の床下、四畳洋間及び外壁と壁板との止め木の間からそれぞれ弾丸が発見されたこと、これらの弾丸が真正けん銃から発射されたものであることは証拠上明らかに認められ、右捜索、検証の日以前にC方に右弾丸三個(平成七年押第一九六号の1ないし3、同年押第一九八号の1ないし3。以下「本件弾丸」という)が真正けん銃で撃ち込まれる事件が発生していたことは明らかである。

二  Bは、本件弾丸の撃ち込みを実行したのは自分であり、被告人Aの指示を受け犯行に及んだと述べて本件公訴事実を認め、弁護人も争わないのに対し、Aの弁護人は、本件は、Aと民事上係争関係にある者らが、Aを窮地に追い込み、利益を得ようと考え、Bを実行犯人として仕組んだもので、被告人Aは無罪であると主張し、被告人Aも、本件公訴事実は全く身に覚えがないと供述する。そこで、当裁判所は、検討の結果、Bが犯行に及んだ事実も、AがBに犯行を指示した事実も認められず、両名とも無罪であると判断したので、以下その理由を説明する。

なお、A及びBの各公判は、ぞれぞれ独立に進行し、第一五回公判において併合され、証人一名(D)ほか数点の書証を調べ再び分離しているので、大半の証拠はそれぞれの関係で請求され、調べられていることになる。そこで、A関係で調べられた証拠を引用する場合にはA甲一、A乙一などと、B関係で調べられた証拠を引用する場合にはB甲一、B乙一、B職一などと、被告人双方の関係で調べられた証拠を引用する場合にはA・B甲一〇六などと付記することとする(甲、乙の記載は検察官の請求証拠番号を示し、職の記載は職権証拠調べの番号を指す)。また、公判廷における供述については、供述自体として証拠となるか、あるいは公判調書として証拠となるかを問わず、公判供述、証言などと表現し、書証については、「謄本」、「抄本」、「写し」の表示を省略することとする。

第二  証拠上明らかな事実

一  Aは、昭和四一年ころから甲野商事という屋号で金融業を始め、昭和六〇年ころに株式会社甲野とし、その会長となったが、依然として、甲野商事との呼称で商売を続け、平成元年ころ以降は、もっぱら不動産取引に従事していた。Bは、昭和六一年ころ、甲野商事に就職し、平成六年二月ころまで勤務した。

二  Aは、平成元年ころ、福岡市中央区《番地略》の乙山名店ビルがいわゆる地上げの対象となりほとんど空き家の状態となっていたことから、自分の意のままになる者に同ビルのうち同所の家屋番号《略》の物件(以下「乙山第一物件」という)を購入させ、いわば虫食いの状態を作り出し、同ビル全体を買い受けようとする者に高額で売却して転売利益を得ようと考え、C’ことC及びCの義兄であるEに対し、転売交渉を一任してもらい転売利益は折半するという条件で、乙山第一物件の購入を勧め、C側は、これに応じ、乙山第一物件を取得して、平成元年二月一五日、Cの姉であるF子名義で、所有権移転登記を得た。

ところが、Aは、平成五年五月ころ、Cに対し、乙山第一物件について金額欄白紙の売渡承諾書に署名するよう求めたが、断られ、裏切られたとして激怒した。

三  Cは、Aに断ることなく乙山第一物件を売却し、平成五年六月二二日、Gに所有権移転登記を行い、その後、Aは、この売却の事実を知った。

第三  Aの関わる民事紛争とBの自首の関連性について

一  証拠上明らかな事実

1  Aは、福岡市中央区《番地略》の乙山名店ビルの家屋番号《略》の物件(以下「乙山第二物件」という)につき、平成元年一二月二二日、同日付売買を原因として、Hから妻のI子名義への所有権移転登記を得たが、Hは、この登記は売買を仮装した通謀虚偽表示であるとして、平成六年八月三日、I子を債務者とし、乙山第二物件につき、不動産処分禁止の仮処分命令を求める申立を福岡地方裁判所になし、同月一五日、同趣旨の仮処分決定が下された。これに対し、I子は、同年一一月一一日、乙山第二物件はHとの間で他の物件との交換に基づき取得したものであると主張して、右仮処分決定に対する異議申立てをし、福岡地方裁判所は、平成七年一月二七日、被保全権利の疎明が不十分であると認め右仮処分決定を取り消し、Hの申立を却下する決定をした。

2  Bは、平成七年三月一六日、Jに連れられ、吉村俊一弁護士の事務所に行き、B自身は、本件公訴事実について、Jは、Aと共謀の上、Hに対し乙山第二物件につき、登記名義を預からせてもらい、地上げ屋との交渉をしてやるともちかけ、いつでも登記名義は返還する旨の嘘を言ってI子への登記名義の移転に応じさせて騙取したという趣旨の詐欺について、同弁護士に同日付けで自首申立書をそれぞれ作成してもらい、翌一七日、両名とも同弁護士を弁護人として博多警察署に各事実について自首申立書を提出し自首した。その後、Hは、平成七年三月二七日、同弁護士を代理人として、乙山第二物件について詐欺の容疑で、AとJを告訴した。

二  乙山第二物件に係る不動産処分禁止の仮処分に対する異議申立事件(平成六年(モ)第九一一四号 不動産仮処分保全異議申立事件)の主張立証状況についてみると、H側は、乙山第二物件を取得していたところ、地上げ業者から執拗に売却を求められるようになったため、Jと相談した結果、第三者名義とすることとしたものであると主張し、H作成の報告書に加え、Jとの間で、同人名義または同人の関係者の所有名義にすること、同人はHの承諾なしにこの虚偽の所有名義を変更しないことを合意した旨を記した平成元年一二月二〇日付けの念書を疎明資料として提出したが、I子側は、H作成の報告書には裏付けがなく、右念書はI子の署名捺印を欠く以上意味がないと指摘した上、I子こそ真の所有者として、乙山第二物件につき、乙山名店ビルの管理費を支払い続けてきており、登記済証も所持していると主張し、これに見合う疎明資料を提出し、福岡地方裁判所は、異議申立て審理に際しH側の代理人が提出した丁からの聴取書によれば、Iは実質的な当事者であるAと折衝してJ子の名義にした旨述べているが、そうであるならば前記念書にI子ないしAが加わっておらず、Aとの間で真の所有者を確認した書面が作成されなかったのは疑問であるなどの点を指摘して、被保全権利の疎明が不十分である旨認めるに至ったことが証拠上ほぼ明らかに認められる。

そうすると、乙山第二物件をめぐる民事紛争において、仮処分決定が取り消され、Hの申立が却下されるに至った段階において、H側は形勢が非常に不利であったといわざるをえないとともに、A、I子側の主張を前提とすれば、HはJと組んで念書なる証拠をねつ造して、仮処分を申立てたとの疑いをもつ余地があることを否定できない。

三  B、H、Jの交際関係等について

1  Jは、A公判において、Aとは昭和三四、五年ころ、仕事の上で知り、その後、甲野商事には頻繁に出入りするようになり、仕事以外でのつきあいもあったし、現在も親しいなどと述べる一方、Hとは一緒に仕事をするようになって約二〇年以上になるもので、平成元年にはHが社長を務める丙川化学株式会社の顧問となり、同社からは交際費などの経費をもらい、同社のために不動産取引の仲介をするたびにその報酬をもらっていたと述べており、長年にわたり、AよりもHと親密な人間関係があったことが具体的に窺える供述をしている。

2  関係各証拠によれば、Bは、平成三年から五年ころ、Hが経営し、不動産取引、産業廃棄物処分場経営を行う丁原興産に出入りし、Kと知り合い、同人に解体工事をしようとしているビルを紹介して報酬を得るなどしていたこと、平成六年三月ころ、Aとの間で、内容については言い分は一致しないが金銭的なトラブルから甲野商事を辞め、まもなく戊田工房に勤めたが、平成六年終わりころ、あるいは平成七年初めころ、この会社が倒産したため辞め、その後、平成九年二月現在、Jの経営する甲田陸海工事でアルバイトをするに至っていることが認められ、Aとは感情的な行き違いが生じて辞めており(同人の平成七年七月二三日付け警察官調書(B乙七)によれば、同人は、Aとの金銭的トラブルが原因で妻と不仲となって平成六年六月離婚に至ったと考えていることが窺える)、他方、本件公訴事実に係る自首の手続をJの手配により進めていることを併せ考えると、遅くともそのころ以後、Jと親密な交際関係を持っているとみることが可能である。

四  JがB自首を利用した形跡について

1  Bの自首に係る本件公訴事実は、重大事件であり、自首したことに加え、同人が述べるようなAからの指示があったとすれば、Bにとっては情状がよく、同人には前科はないことが証拠上明らかであり公訴を提起されても社会内更生の機会を与えられる可能性が高いが、Aにとっては情状は本めて悪質で長期の服役を強いられることとなるような事実である。

2  そして、先に認定したとおり、JがBを吉村弁護士の事務所に連れていくなどして、Bとともに、自らの自首の手続きも進めている経過が認められるが、JのA公判における供述(以下「J証言」という。B関係でも供述状況を立証趣旨として証拠となる)は、自らの自首の理由について、Hが仮処分の取消を受けて告訴に踏み切ると言ってきたので、自分に前科があることから情状をよくするため、ちょっと告訴を待ってもらい、自首したものと説明するが(一〇一〇項以下)、Jの自首した事実は、Hが仮処分命令申立書において主張した事実関係を基礎としたものであり、自首の時点においては、既に乙山第二物件に関し仮処分取消決定が平成七年一月二七日に出されており、前記のような証拠関係にあったことを考慮すると、客観的にみて、強制捜査が行われ、公訴提起に至る可能性は極めて乏しい状況にあったことは明らかであり、真に告訴を恐れて情状をよくするため自首したものとは考えられず、J証言は信用できず、右経過からするとむしろ他に何らかの意図があったものと推測することが可能である。

3  Jは、A公判において、Aの弁護人から反対尋問を受け、Bが自首した後、甲野商事にいるAの甥のLに対し、「Bさんがいくら自首をしても、ものが出なければ、つまり、けん銃が出なければA’さんは無罪になると。それで、そのピストルはもう既にあなたの側の手中にあるんだと、自分の意思でどうにでもなるんだから、今のうちにHさんの物件について話をするようにA’さんに言ってくれんかと、こういう話を」したことはないか、「それに似通った話はあるんですか」と問われ、「ありますね」と答え、「もう、あなた方の手中にそのけん銃は入ってるんだと、こういうふうに言われたことはありますか」との問いに対しては「いや、それはないですね」と答えつつ、「それに近いようなことを言われたことはないですか」と聞かれ、「船を出しゃ、取ってくることはできますね」と返答していたものであり、JがBが自首したことをAとHとの民事紛争に関して利用しようとしていたことが窺えるような供述をしている。

4  以上によれば、Jは、HとAの民事紛争をHに有利に進めるため、Bに自首させてこれをAに対する圧力として利用しようとたくらみ、Bの自首の手続きを進めたと考える余地がある。

五  B自首の不審点

後に検討するように、Bが平成五年一〇月ころの犯行について一年数か月後の平成七年三月に自首するに至った動機、経緯について述べるところは、全く信用できず、自首申立書(B甲二、A弁五)の作成経過も不自然な点があるほか、その記載事項の中にも、B自身、意味内容を説明できない部分が含まれているなど、Bが真に自らの考えで自首したものか疑いを持たざるを得ない点がある。また、右自首申立書の一三項には、追伸として、「A’会長がHの土地の件でJ相談役に対して『売れたり代金を半分づつに分よう。』といっていたのを私も聞いて居りました。」と記載されており、Hの民事紛争における主張に沿う事実が記載されていることが認められる。

六  まとめ

以上の諸点を総合すれば、Bの自首は、その経緯などの点からみて、Jにおいて、HとAの民事紛争をH側に有利に解決するため、Aに圧力をかけようとしてBを本件弾丸を発砲した犯人として仕立て上げAの指示のもとに犯行に及んだとして自首させたという疑いを生じる余地があるといえる。そこで、本件公訴事実に係る犯行をAの指示で実行したとするB供述の信用性について検討していくこととする。

第四  B供述の信用性

一  Bは、自らの捜査及び公判で供述するほか、Aの公判において証人として供述しているところ、後に検討するように、細部において種々の変遷を遂げているが、Bの平成七年七月二八日付け、二九日付け検察官調書(B乙一二、一三)及びA公判における供述(以下「B証言」という。B関係でも供述状況を立証趣旨として証拠となる)の大要は以下のとおりである。

1  Cが乙山第一物件を売却した後、Jが甲野商事に来てそのことをAに報告したところ、Aは、激怒し、Cの家族に電話をした後、MとNにCを襲撃し、重傷を負わせるよう指示した。

2  ところが、Mは、平成五年八月ないし九月ころ、妻子があることを理由にCの襲撃を断り甲野商事を辞め、Nも甲野商事に来なくなった。そこで、Aは、自分に、Cを襲うよう指示し、次いで、解体業を営むOが、Pとともに甲野商事にけん銃を二丁売りに来たことがあったことを思いだし、自分に、Oからけん銃を入手して、そのけん銃でCを銃撃するように指示し、頭に当たってもかまわない、あるいは死んでも仕方ないなどと言った。

3  そこで、自分は、Oと連絡を取って、同人が当時、解体作業をしていた福岡市中央区天神のビルに行き、Oのトラックの中で、けん銃一丁を受取った。そのけん銃は、Oが前にPとともに甲野商事に持ってきたうちの一丁と同じものと思われ、ローマ字で「ベレッタ」という文字と、「1934」という数字が刻まれていた。Aが自分に「ずっとけん銃を持っていろ」と言うので、背広の内ポケットかジャンパーの内ポケットに入れて、携帯していた。後に発砲するまでの間、そのけん銃の表面に吹いている錆の粉を落とし、装填した弾丸の入れ替えをしたことがあった。

4  自分は、Aの指示により、Cの動向を探っていたが、Aは、自分にたえず襲撃を実行したかどうか聞いていた。この間、自分は、警察の捜索を恐れ、自分の友人であるQに頼んで、けん銃を入れたゴム長靴を預けたが、Qはその日のうちに「預かれない」と言って自分に返しに来たことがあった。

5  平成五年一一月の発砲の直前ころ、被告人を自宅に送り届ける途中、被告人から強い口調で催促を受けたので、いよいよCに対し何かしなければならないが、じかにCを傷つけることはできないと思い、Cの自宅に発砲することを考えついた。当時、手取りで三〇万円の給料をもらっていたが、首を切られこれを失うのは惜しかった。

6  そこで、同月九日ころの午後八時を完全に過ぎた時刻ころ、自分は、C方へ車で行き、近くに車をとめ勝手口に向かった。勝手口の近くの路上に立ち、家に当たるように三、四発ほど続けて発砲した。下に落ちた薬莢については、二個だけを拾い、車でその場を去った。

7  その後、海に面した公園に行き、残った弾丸三、四発を海に発砲してからけん銃を海に投棄し、また、よく利用している酒屋のところに行き、C宅への発砲時に着ていた衣類を焼却用のドラム缶に投棄し、その後、天神のスナックで酒を飲んだ。

8  発砲の翌日、自分が、Aに報告すると、Aは、物足りなさそうな口調であり、C’にあたっているかどうかを確かめたいようで、新聞やニュースを見ていた。昼には、拾い損ねた薬莢を探しに行ったが見つからなかった。

9  その後も、Aの指示で、Oから実包入り回転式三八口径のコルトを入手するなどしていたが、Aに対し、個人的に貸した金二〇〇万円の返済を求めたところ、嫌な顔をされたので、警察に捕まっても面倒をみてもらえないと思い、平成六年三月ころ、甲野商事を辞めた。

二  検察官は、B供述は具体的かつ詳細で根幹部分において一貫している上、Bは罪を清算する意図で重大な不利益を覚悟で自首したものであること、その結果、C宅から弾丸三個が発見され、弾痕がみつかるなどしており、Bの供述は重要な事実について秘密の暴露を含むものといえること、Oからけん銃を入手したという点ではJの供述により、Bがけん銃を所持していたという点ではQの供述により裏付けられていること、犯行の日時についての裏付けがなされていることなどに照らし、十分信用できると主張する。

確かに、Bの供述は、捜査・公判を通じ、自分が本件弾丸を発砲したことを認めているものであり、ある程度具体的かつ詳細であるといえる。そこで、次に、その信用性を子細に検討していくこととする。

三  B供述の信用性を裏付ける事情の有無について

1  Bの自首の真摯生について

(一) 自首を決意した理由等について

(1) B証言の要旨

<1> 検察官の主尋問に対する証言

自分が、パチンコ屋で、偶然にJと会った際、喫茶店に連れて行かれ、Jに、「AからC’さんのところをけん銃で発砲したのを聞いたよ」と言われ、「どげんなさるとですかね」と言うと、民事事件とかがあるので自首した方がいい、そうしないと刑務所に行かなければならないと勧められ、もう、この事件には関わりたくなかったが弁護士に聞いて自首した。

<2> Aの弁護人の反対尋問等に対する証言(第五回六八六頁以下)

戊田工房に就職して働きだした前後の平成六年三月下旬か四月ころ、Jとパチンコ屋でばったり会って話した際、同人から、Aが自分のことについてCの家だけ撃ったので、甲野商事を辞めさせたと言っていたという話が出た。Jの耳に入っているなら仕方ないと思い、撃ち込みを告白するとともに、普通の会社で働いているので、自首してきれいな体になりたいという相談をした。そのときには、自首を決意していたが、どういうふうに警察に自首したらいいのかわからず、その後、悶々としていた。平成六年一二月ころ、Jと再びパチンコ屋で会い、いずれ警察にばれるから、弁護士に聞いてきちっとしておいた方がいいと言われ、平成七年一、二月ころには、Jから、Aが自分のことを殺すと言って探している、逃げていたほうがいいぞと教えてもらい、いよいよ自首を決意した。

なお、自首した当時、配管の会社(戊田工房)の工事部長をしており、収入は、まちまちだが大体四、五〇万円あり、当時、生活には困っていなかった。自首する少し前には、戊田工房の副代表に相談した。

(2) Bの平成七年七月二三日付警察官調書・第六、七項(B乙七、A弁一七《弾劾証拠。以下、Bの捜査供述をA関係の弁号証とする場合はいずれも同じ》)

平成六年三月ころ、甲野商事を辞め、同月下旬から翌四月ころは配管工事関係の戊田工房で働きだしたが、そのころ、Jとパチンコ屋でばったり会った。その際、自分が甲野商事を辞めた理由が話題となり、それまで、C方にけん銃を撃ち込んだ件は自分が話さなければ誰にもばれないと思い黙っていたが、Jから、Aは、自分のことについて、Cの家を空撃ちしただけで、Cを殺せないので辞めさせたと言っていたと聞かされ、Aから指示され撃ち込みをしたことなどを教えた。その後も戊田工房で働き、設備工事部長の肩書きももらっていたが、同年一二月ころ、再び、パチンコ屋でJと会った際、自首を勧められ、その際、Hが乙山第二物件を購入した経緯について甲野商事の従業員の証言を得たいというので、同月下旬ころ、同従業員をJに引き会わせた。その結果、陳述書が作成されたが、同従業員がA’からの後難を恐れて署名しなかったので、自分が署名したところ、平成七年一、二月ころ、Jから、Aが陳述書の件で自分に腹を立て殺すと言って暴力団員を使って探していると聞かされ、戊田工房には休ませてほしいと申し出て逃げ回る生活を送るようになり、実質的に辞めたと同然の形に追い込まれた。そこで、こうなったら自分自身のことはどうなってもいいが、Aのやつは逮捕してもらい、どうにかしないと我慢できないと思い、自首を決意するに至った。

(3) Bの平成七年七月二五日付け検察官調書(B乙一〇)

平成六年一二月ころ、パチンコ店でJと久しぶりに再会し近くのイタリア料理店でHとAの民事紛争の話をしたが、同月末ころ、再度、同じイタリア料理店で話した際、Jからいきなり、お前甲野商事を辞める前にC宅に撃ち込んだろうと言われ、当初はあいまいな返事をしたが、Jは本当にAから聞かなければわからない話をしていたので、隠し立てをしても仕方ないと思い発砲の件を認めた。そして、Jから、Hの物件もC’の物件も同じ地上げが行われている物件だから、民事でもめていればいずれ発覚するから自首した方がよいと言われ、罪を清算することにし、Jに吉村俊一弁護士を紹介してもらい、相談の上自首した。

(4) J証言(四一〇頁以下)

自分は、平成六年三月に、Bとパチンコ屋で会ったことはない。平成六年一一月ころ、パチンコ屋で偶然、BやRらと会い、Hも含めて四人でスパゲティ屋でコーヒーを飲んだ際、AとHの民事紛争の件が話題に出ると、Bが「何か起こるっちゃないですか、C’さんのように」と言うので問い返すと、C方に発砲したことを打ち明けたが、自分は今日はこれ以上は聞かないでおこうということでこの話題は切り上げた。その翌日、四人で会い、乙山第二物件の件でBから話を聞いたが、S、Tを呼んで、C宅への撃ち込みの件で詳しい話を聞いた。Sらを呼んだのは、こういうこともあるからHと喧嘩しないで和解するようにとAに言ってもらうつもりだったからである。Hが博多署の柴田刑事にC宅銃撃の件をもっていったらしく、第一回目にBが銃撃を打ち明けてから三日ないし五日後、スパゲティ屋で、Hから柴田刑事に引き合わされ、話はBから聞いたと言って事情を尋ねられたが、時期尚早として断った。その後、平成七年一月になって、Bと会った際、柴田刑事を含めみんなの耳に入った以上、自首して罪を軽くした方がよいと言って自首を勧めた。

C宅銃撃の件は、Aから聞いたことはなく、Aがそんな馬鹿なことを言うはずがないと思う。(反対尋問でB供述との矛盾を指摘され)もっとも、Aとは親しいので聞いたかもしれず、Bから聞く前に薄々知っていた。

(5) そこで、右のBの自首に関する各供述の信用性を検討するに、BとJの各供述とも、いずれからC宅への銃撃の件を話題にしたのかという点について思い違いの余地はないものであるが、B供述を前提とすると、JはBから聞く前にAからC宅銃撃の件を聞いていたことになるところ、このことを嘘を言って隠そうとするとは到底考えられず、J供述に照らし、B供述は信用できないというべきである。なお、J供述も、弁護人の反対尋問で、B供述との齟齬を追及されると、途端にあいまいとなっており、前記のような疑いがあることに照らすと、B犯人説を強調するためBから犯行を打ち明けられた旨を述べているにすぎないとみることもでき、これまた信用できない。

また、Bの平成九年二月九日付け警察官調書(A・B乙一六)によれば、自分は、平成六年の暮れか、平成七年初めに、戊田工房を辞めたが、その理由は、会社倒産が主な理由であり、自分が、戊田工房に勤めている間、戊田工房の資金繰りがうまくゆかず、自分の給料も満足に支払ってもらえなかったというのであり、前記警察官調書(B乙七)における、Aから戊田工房を辞める方向に追い込まれたという供述(なお、この供述は検察官調書《B乙一〇》、公判証言では出てこない)と余りにも食い違っている。

以上によれば、結局、Bの自首を決意した理由に関する供述は信用できず、その動機、経緯は不明というほかない。

(二) B作成の自首申立書(B甲二、A弁五)について

右自首申立書の冒頭には、「私は、平成七年三月一一日、自筆で作成した供述書の原稿を吉村法律事務所にファックスし、同法律事務所においては、同原稿をわかりやすく左記の通りワープロしましたが、同ワープロ部分は私の供述書の内容と同一」である旨の記載があるが、B証言(A第五回公判)において、Bは、吉村弁護士に、事前にメモや原稿を渡したことはなく、また、ファックスをしたこともない旨供述しており、右自首申立書の記載は信用できない。なお、Bは、右証言の後、自らの公判における被告人質問において供述を変遷させ、ファックスをした旨を述べるに至っているが、右証言に照らし信用できない。

また、同申立書には、犯行について説明した記載の後、犯行使用けん銃の投棄場所について述べた記載の前に、「私が甲野商事を辞める間際に、A’会長がJ相談役に対して『HがC’の様に裏切った場合にはJさんHを殺してもらいますよ。』と話しているところを聞きました。そうすると、J相談役が『Hにはくんろくを入れてるから心配するな。それより、C’の事を始末付けることが肝心ですよ。(後略)』と言って居りました事を、私は聞いて居ります。それとF子の土地を取り戻すことが先よと、その為にはUさんを刑事問題に作りたて、いかにも真実であるように工作しているところの話も私が聞いて居りました。その件は全部A’会長が考え、刑事から民事に切り替えすることを考えたのです。その場には、A’会長の社員のVもいて、Vと相談している所も聞いて居ります。」との記載があるが、Bは、A第五回公判において、J相談役が言ったという「くんろく」という言葉の意味やA’会長(A)が考えたという「刑事から民事に切替えする」という計画について、自分は言葉を覚えているだけで意味内容は分からないと証言している。しかしながら、右の一節は、五頁弱の同申立書のうち、一頁近くを占めるものであって、Bが甲野商事を辞める間際に聞いた印象的な会話であったからこそ、犯行には直接の関係はないもののこれを記載したものとみるのが自然である上、「刑事から民事に切り替えする」という考えは、Aの話をBがまとめて述べている部分であって、意味が理解できない言葉や事柄を記載したというのは甚だ不自然である。そして、B自身、Aの公判において、Jが自分から聞いたことをメモして吉村弁護士に送っているかもしれないと証言していることからすれば、自首申立書の内容は、B自身の考えた内容ではなく、Jの創作によるものと疑う余地が十分にある。

(三) 自首後のBの銀行口座への入金について

Bの銀行口座に、自首後の平成七年三月二九日付けで一二〇万円の入金があることが証拠上明らかに認められるところ、この入金について、Bは、A第五回公判(平成八年三月四日)において、当初、Aの弁護人からいかなる性質のものか問われ、記憶がないと述べ、次いで、裁判長の補充尋問の際、記憶喚起したところ、当時勤めていた戊田工房では一つの現場が終わった後給料が支給される仕組みであるが、たぶん三か月分の給料をまとめてもらい、自分で入金したかあるいは誰かに入金してもらったのだと思うと説明し、その一〇か月後の平成九年一月八日の自らの公判における被告人質問においても同旨を述べるとともに、戊田工房は既に倒産していて今は確認できないと述べたが、その後、同年二月九日に至って、警察官に対し、右は思い違いであり、平成六年暮れか平成七年始めころ、戊田工房のW副代表の手形決済の手伝いをし謝礼として五〇万円を受け取っていたが、その残金に加え、右入金の一、二日前ころ、当面の生活費と弁護士費用の支払いのためKから一〇〇万円借り、利息を天引きされて受け取った九四万円を加えてできた金員の中から一二〇万円を入金したのが本当だと思う旨述べるに至った(A・B乙一六)。

この供述の変遷は、一見すると、記憶が喚起され、明瞭となったもののようにもみえるが、Bは、A第五回公判において、自首当時、戊田工房に勤め、収入は四、五〇万円あったと述べた上で、当初の説明をしていたのであるが、この前提自体、新たに警察官に述べたところによれば、戊田工房は資金繰りがうまくゆかず、給料を満足に支払ってくれず、会社倒産が原因で平成六年終わりか平成七年初めころ辞めていたというのであるから、全くの誤りであり、当初の説明は嘘を述べたとしか考えられない。Bは、平成九年二月九日付け警察官調書において、今までの裁判においてAの弁護人から自首の対価として一二〇万円をもらったと疑われているような感じであるとの趣旨を述べているが、Aの第五回公判の際、既にこのような疑いを感じ、嘘を述べ、自らの同年一月八日の公判の際も同旨の嘘を維持していたと推認される。

他方、前記警察官に対する新たな説明についてみると、手形決済の謝礼については裏付けがなく、Kからの借り入れについては、同人と電話などで連絡を取りあい、道路上で、借用書も作らず行ったものであり、その後全く返済せず、連絡も取っていないというのであって金銭の貸借として不自然な感を否めず、Kの平成九年二月九日付け警察官調書(A・B甲一〇〇)によって一応裏付けられてはいるが、Kは不動産ブローカーとしてHの経営する丁原興産に出入りしていた者であり、同人の供述も、金利を天引きしたというのに借用書を作成していないなどの点で同様に不自然であるから、両供述とも俄かに信用できず、Bの新供述も虚偽である疑いを払拭できない。

そうすると、Bは、虚偽を述べて、一二〇万円の真の趣旨を隠蔽しているとの疑いがあり、自首の対価であった可能性も十分考えられる。

(四) 以上からすると、Bの自首の経緯は不自然な点が多々あって、真摯に自首したものとは認められない。

2  秘密の暴露の有無

検察官は、Bの自首後に行われたC方の捜索及び検証により、弾丸三個が発見され、C方の北側勝手口ガラス戸のガラス等に弾痕と思われる痕跡があることが判明しており、これは真犯人しか知りえない秘密の暴露に該当し、B供述の信用性を裏付けるものであると主張する。

確かに、捜査機関は、Bの自首を契機としてC宅に対する捜索、検証を行い、その結果、弾丸三個が発見され、また、C方の北側勝手口ガラス戸のガラス等に弾痕と思われる痕跡があることが判明したことは証拠上明らかに認められる。

そこで、これがいわゆる秘密の暴露に当たるものか検討するに、X子のAの公判における供述(以下「X子証言」という。B関係でも被害状況等を立証趣旨として証拠となる)によれば、平成六年の暮れか平成七年一月ころ、警察官がC方を訪れ、Cの妻であるX子に、家に悪戯をされたことはないかねと尋ね、平成七年二月二〇日ころ、再び、警察官が二、三名で訪れ、「ガラスが割られたことはないか」と尋ねたという経緯があったことが認められ、Bの自首に先行して内偵検査が進められていた形跡が窺える。したがって、必ずしもB本人が直接、捜査機関に犯行を明らかにしたものとはいえない(なお、J証言によれば、平成六年一一月ころ、既にHが博多署の警察官にBのC宅への撃ち込みの件を話し、その警察官は、Bから事情を聞いたと言ってJにも事情聴取を試みたというのであって、Hの情報提供が一番の捜査の端緒となって内偵捜査が進めれらたものと推認することができる)。

そうすると、先に検討したとおり、本件では、BがJ、Hらによって実行犯人として仕立て上げられたものではないかとの疑いを生じているのであるから、Bの自首後、弾丸三個が発見されたなどの事実は、このような疑いを払拭するだけの証拠価値はない。

3  Oからけん銃を購入したとの点のJ供述による裏付けについて

J証言は、平成五年九月ころ、O某がP某とともに甲野商事にけん銃二丁を売り込みに来た際、Aから呼ばれて立ち会ったが、その場では売買は成立せず、その後、そのうちの一丁のベレッタをBから見せられたことがあり、どうしたのかと尋ねると、BはAに話して購入したと言っていた旨述べており、一見、B供述と合致し裏付けるようにみえる。しかしながら、B供述はAが指示してBにOから入手させたというのであり、B自身は余り気が進まなかったという趣旨を述べるものであるのに対し、J証言はBがAに頼んで買ってもらったという趣旨となっており、むしろ矛盾するというべきである上、Jの検察官調書(B甲三四、A弁二三《弾劾証拠》)においては、平成五年九月末か一〇月初めころ、Aを誘って飲みに行った際、AのボディーガードをしていたBからベレッタを見せられたことがあるとしながら、その入手経路を尋ねたり、説明を受けた形跡はなく、平成六年一二月ころ、福岡市中央区長浜付近のパチンコ店で偶然Bに会い、近くの店で話した際、Bから、Aに言われてOからけん銃を手に入れたとの話を聞いた旨供述し、また、Jの警察官調書(B甲三二、A弁二二《弾劾証拠》)においては、Bから平成五年一〇月ころ、Aの指示でOからけん銃を受け取り、C宅を襲撃したとの話を聞いた旨供述するが、Bからけん銃を見せられたとの供述は存しないのであって、J供述は、微妙に変遷しており、既に認定のとおり、Jは、Bの自首に深く関わり、前記のような疑いがあることを考慮すると、J供述をたやすく信用することはできず、結局、J供述がB供述を裏付けているとみることはできない。

4  けん銃所持の点のQ供述による裏付けについて

Qは、同人の検察官調書(B甲三六)及び警察官調書(B甲三五)並びにAの公判において、平成五年九月か一〇月ころの、午後八時半ころ、Bから、長靴を二つ折りした物を中を見ないで隠しておいてくれと言われて預かり、ピストルか覚せい剤かと思い、中を見ずに自分の自動車に隠したが、一時間か二時間かして心配になってBに電話をした上、翌日の午前零時三〇分ころ、B宅に行き、長靴を返還したということがあり、一か月後、B宅に遊びに行った際、あれはけん銃であり、あれで撃ったと打ち明けられ、さらに、平成七年三月ころ、居酒屋で一緒に飲んだ際、Bの方から、甲野商事の会長の指示で不動産関係の家にけん銃で撃ったこと、自首したことを告げられたと述べ、B証言を裏付ける供述をしている(以下Qの右公判供述を「Q証言」という。B関係でも供述状況を立証趣旨として証拠となる)。

しかしながら、Qは、その後、Aの公判においてBが犯行に使用したというけん銃の種類や形状が問題とされるようになった後の平成八年九月二九日付け検察官調書(A弁一三)において、Bからなかなか裁判官に信用してもらえず、裁判が決着しないからちゃんとした仕事に就けないと弱々しく打ち明けられ可哀想になり本当のことを話すつもりになったとした上で、Bから長靴を預かった際、中を見るなと言われたことから余計に中を見たくなり、乗用車の中でルームライトをつけて中の品物を取り出して見たところ、白色で手首のところに青色か緑色の縁取りのある軍手の片方が入っており、その中には黄土色の油紙に包まれた黒っぽいけん銃が入っていた、そのけん銃は、握りの部分に多数の構が彫ってあり、丸っぽいマークやねじがついており、筒の部分にはローマ字が彫り込まれていた、中身を見たことを話さなかったのは自分が罪責を問われることを恐れたからであると述べ、供述を変遷させ、けん銃を見たとしてその形状、特徴を詳しく述べるに至り、Bの公判においても証人としてほぼ同旨を供述している。この変遷後の供述は、見るなと言われて見たくなり中を見たという点ではむしろ通常の人情に合致し自然ともいえるが、Q証言では、長靴の色について問われ、「夜だったので覚えてません、色までは。薄暗かったから、電気とかなかったから」と返答していたのであり(一四七頁)、この点では嘘をつく理由はなかったはずであるから、変遷後の供述が、軍手やけん銃の色や形状について具体的な供述をするに至った点は大いなる矛盾であるといわなければならない。そして、Q証言は、親友のBから長靴の中身がけん銃であった、あれで撃ったと打ち明けられた際、何を撃ったのかなど事柄の詳細について質問したことはなかった、冗談だと思ったと述べ、その際のBの表情は得意げだったのかと問われてもわからないなどと返答し、真に当初から長靴の中身がけん銃であったと知っていたとは考えにくい供述に終始しており、また、居酒屋でのBとのやりとりについても、種々の観点から尋問を受けながら、その具体的状況を明らかにできず、Bと同人のいずれからけん銃のことを話題にしたのかという点について、公判に先立つ捜査供述では気になって自分から尋ねたという相反した供述をしていたと窺われることを考えると、同人の供述はいずれも信用できない。

5  犯行の日時が裏付けられているとの点について

検察官は、Bは検察官調書及びA公判において「平成五年一一月九日ころの夜、C宅に発砲し、その後、天神のスナックで飲んだ」と述べるところ、スナックの店主の供述(Yの平成七年七月二六日付け警察官調書、A甲四七、B甲四六)により裏付けられていて信用できると主張するが、Bは、発砲の日について、自首申立書には明確に記載しておらず、同年三月一七日付け自首調書(B乙一、A弁一六)においては、一〇月ころ、同年七月二五日付け《二通》、二八日付け検察官調書において(B乙一〇、一一、一二)、一一月初めころと述べ、二九日付け検察官調書(B乙一三)に至って、一一月九日ころと述べ、B証言は、当初は一一月八日から一〇日と答え、次いで検察官から誘導されて一一月九日と答えていたのであり、自首以降にスナックの店主が調べられ、一一月九日の来店が裏付けられたとしても、証拠価値は非常に乏しい。

6  AがCに対し激怒していたとの点について

CのA公判における供述(以下「C証言」という。B関係でも被害状況等を立証趣旨として証拠となる)及びX子証言によれば、Cは、平成五年の春ころ、乙山第一物件について、甲野商事の従業員が金額欄白地の売渡承諾書の作成を求めたのに対し、これをあくまで拒否し、まもなくZ他一名とともに、甲野商事の事務所を訪れ、従業員に転売交渉の委託を撤回する旨を通告して退去したところ、Aが激怒して直ちにCの携帯電話に電話をかけ、「たたき殺す」などと言い、Cの自宅にも電話をかけ、X子に「出ていけ」などという暴力的発言をし、Cの母にも電話を入れたことが認められ、AがCに激怒していた時期があったことが窺えるのであり、この点では、B証言は裏付けられているといえる。

もっとも、Aは、公判廷において、一旦は激怒したが、Cらは、乙山第一物件の転売交渉委託の撤回を通告しに来た際、乙野組の企業舎弟を連れてきていたものであり、乙野組の組長は丙山組本部の若頭であって、非常に位が高い暴力団が絡んできたことになり、もうどうしようもないと思ってC側が乙山第一物件を売却した後はあきらめた旨述べているところ(B関係でも供述状況を立証趣旨として証拠となる)、C、X子の各証言によっても、右の各脅迫的な電話は、C側が転売交渉の委託を撤回した直後になされたものであり(X子は同年六月二日であることを明確に述べる)、C側が、同年六月二二日に、乙山第一物件をAに無断で売却した以降にAが同様の電話をした形跡は窺えず、Cは、A公判において、右委託の撤回の際、義兄のほか一緒に甲野商事を訪れた人物について、丙山組系の暴力団乙野組の関係者であったことを暗に認める供述をしていることに照らすと、Aの右供述も一定の合理性を有する。かかるA供述を念頭において、B供述をみると、同供述は、AがCに対する怒りを持続させ、けん銃使用を命じるほど高めていった経緯についてはごく平板な供述しかなしていないといわざるをえず、裏付けも十分ではない。なお、次に検討するMの検察官調書に、Cが乙山第一物件を売却したので、Aが激怒していた旨の供述はあるが、併せて、Aが怒って電話でCにやかましく怒鳴っていたと聞いたと述べられており、同調書にいうAの怒りはC、X子の証言に照らすと、転売交渉委託撤回直後のものと読むほかないものである。

また、Mの平成七年七月二六日付け検察官調書(A・B甲一〇六)は、平成五年の夏ころ、C宅を見張っていたことを認めるものであるが、Aの指示によるものではなく、言われる前に少し脅してやろうと思ってしたことであり、甲野商事を辞めた理由もAが自分は使いものにならないと言っていることを間接的に聞き嫌気がさしたころ、ちょうど新たな仕事の話があったからであるとしており、B証言によっても、甲野商事がいわゆる地上げを仕事としており、目的を達するためには手段を選ばず、Mは警察の取調べを受けることも多かったというのであり、右のM供述の信用性は否定できない。そうすると、右のM供述は、B証言を裏付けるものとは必ずしもいえない。なお、Mの平成七年三月三一日付け警察官調書(B甲三〇)は、AからNを介して「Cを殺れ」と指示を受け、人の命を奪うようなことはできないので甲野商事を退職した旨述べるが、殺人の指示が他人を介してなされるとは考えにくい上、後に検察官に対しては右のような供述をしたにとどまっていることを考えると、俄に信用できない。

7  なお、検察官は、Cがガラス戸のガラスの補修のため貼付していたカーペットテープの鑑定の結果、その粘着力劣化の度合から貼付後一ないし三年経過していると認められるとし(A甲八五、B甲一一四)、B供述の裏付けとして援用するような主張をしているので検討しておくと、右鑑定は、C方のガラス戸に貼付されていたカーペットテープと劣化を促進するような環境の下に数十ないし百数十時間置くことによって老化させたカーペットテープを比較して推定しているものであるが、C宅のガラス戸付近での一年が、いかなる劣化促進環境の下での何時間の老化に該当するものかにつき確たる根拠に基づいた検討がなされないまま、試験及び比較がなされており、右の鑑定の結果にはほとんど証拠価値はない。

8  以上からすると、結局、B供述は、Aが、平成五年春ころ、C側から乙山第一物件の転売交渉の委託を撤回され、激怒していたという限度で、裏付けられているにすぎない。

四  B供述の信用性を減殺する事情について

1  B供述における犯行使用けん銃とC方から発見された弾丸の発射けん銃の同一性について

(一) 前記のとおり、B供述は、犯行使用けん銃について、ベレッタとローマ字で書いてあり、「1934」の刻印がしてあったとするものであるが、B証言は、その根拠として、けん銃を預かって二週間くらいしたころ、ガンショップに行ってけん銃を入れるサックを購入しようとした際、店員にサイズが適合するサックを探してもらおうと思い、ベレッタという文字と1934という数字を確認したことを挙げており、そして、そもそも、同証言は、自分はけん銃に興味があり、モデルガンを購入したこともあり、また、自衛隊にいたころ、けん銃の構造、射撃方法、保管上の注意について一通りの講義を受けたことがあるとした上で、犯行使用けん銃については、試射したことはないが、弾丸のカートリッジをはずしていじっている内に機械の動きを見てセミオートマチックであることが分かったこと、表面の錆を落としたことをも述べ、十分に観察する機会があったことを明らかにしているものであって(第四回九九頁以下)、犯行使用けん銃にベレッタという文字と1934という数字があったことを訂正の余地のないほど明確にしているといえる。

そして、A1のA公判における供述(以下「A1証言」という。B関係でも証拠となる。)及びDの公判供述(以下「D証言」という)によれば、ベレッタという文字と1934という数字が刻まれている二五口径のけん銃は、ベレッタ一九三四型というモデルのけん銃か、あるいは、一九三四年にベレッタ社が製造したけん銃であって、一九一九型の改良型モデルのいずれかであり、いずれにしてもベレッタ社の第二次大戦前のモデルであることが認められる。

(二) そこで、C方から押収された本件弾丸の発射けん銃について検討していく。

(1) 証拠上明らかな事実

イ 一般に、けん銃には弾丸に回転を与えるため、銃腔に腔せんが刻まれているが、腔せんの刻み方は弾丸の速度や直進性、ひいては命中性能に影響を与えるため、メーカー各社は各社なりのポリシーをもって設計・生産を行っており、同一メーカー、特にベレッタ社のような大きな銃器メーカーであれば製造時期によって変動は余りないことから、凸部分であるせん丘が弾丸に与えるせん丘痕の回転の左右、条数、幅を測定することにより、発射済みの弾丸から、その使用けん銃を推定することが可能となる。なお、せん丘痕幅については、一つの弾丸に条数分のせん丘痕がつくことから、それらを全て測定して平均値、最小値、最大値を計測して考慮することが必要である。

ロ 本件弾丸三個は、二五インチ自動装てん式けん銃用実包の発射弾丸であるが、これらに刻まれたせん丘痕は、いずれも右回転の六条(せん丘痕角は約四度)であり、これは正規のけん銃から発射されたことを示すとともに、発射けん銃がベレッタ一九三四型あるいはベレッタ社の第二次大戦前のモデルであることと矛盾しない。

ハ 本件弾丸のせん丘痕の幅は、A1の測定結果によれば、約一・四五ミリメートル、あるいは、Dの平成七年押第一九六号の1及び2の弾丸(同年押第一九八号の1、2)の測定結果によれば、平均一・四〇ミリメートル、標準偏差〇・〇六ミリメートル、最小一・二七ミリメートル、最大一・四八ミリメートルであった。

ところで、ベレッタ社の二五口径のけん銃は、一九一九年ころに最初のモデル、一九一九型が製作され、これが順次改良され一九二六型、一九三一型、一九三四型(一九三四年に改良されたもの。別名三一八型)、四一八型となり、同系のけん銃は一九五〇年代まで生産され、同年代に九五〇型に移行したものであるが、日本国内で押収されるベレッタ社の二五口径のけん銃のほとんどは九五〇型の系統のものであり、それ以前の一九一九型ないしその改良型が押収されるのはまれである。そして、Dが科学警察研究所機械第二研究室長として、一九七五年以降、日本国内で押収されたけん銃のせん丘痕幅のデータを集計した結果、九五〇型系のモデル(九五〇型、九五〇B型、九五〇BS型)を主とするベレッタ二五口径については、計測データ数は三〇〇丁以上に上るところ、平均値は〇・八五ミリメートル程度(標準偏差は〇・〇三ないし〇・〇八ミリメートル程度で、最小・最大値は〇・七ないし一・一一ミリメートルの間に分布する)という傾向にあり、この傾向は長い間変化がなかったもので、本件弾丸のせん丘痕幅のデータはこれと大きく異なる。

二 本件弾丸のせん丘痕幅のデータからいうと、発射けん銃は、タイタン、タンフォグリオないしこれと同一諸元を有するけん銃であると推定するのがオーソドックスな銃器鑑定の結論である。

(2) D証言は、本件弾丸のせん丘痕幅のデータはベレッタ二五口径の九五〇型系のモデルのものではないといえるが、これ以外のモデルのデータは少なく、かえって、日本国外のデータには本件弾丸のせん丘痕幅なみの数値を示すベレッタのモデルを挙げたものがあるとし、FBI研究資料写し(甲一〇四)の七二頁の<1>整理番号06039のベレッタ(モデル名不詳、せん丘痕幅の最小値〇・〇五一インチ《一インチを二・五四センチメートルとすると一・二九五四ミリメートル》、最大値〇・〇五五インチ《一・三九七ミリメートル》)、七四頁の<2>整理番号06228のベレッタ(モデル名ポケット、前同最小値〇・〇六〇インチ《一・五二四ミリメートル》、最大値〇・〇六三インチ《一・六〇〇二ミリメートル》)を指摘するほか、銃身が交換されたために本来のベレッタのモデルとは異なった数値が出現する可能性についても言及し、本件弾丸のせん丘痕幅のデーダがベレッタ二五口径のうち九五〇型系以外のモデルのものである可能性は否定できないとする。

そこで、検討するに、確かに、ベレッタ二五口径の一九一九型ないしこれの改良型のデータは、日本国内において九五〇型ほど豊富には収集されていないことから、実証的には、本件弾丸のせん丘痕幅のデータがベレッタ二五口径の一九一九型ないしこれの改良型のものではないと断ずることはできないとしても、先に認定したように、ベレッタのような大手銃器メーカーは腔せんの刻み方について一定のポリシーを持ち、製造時期によって、せん丘痕の幅に余り変動をみせないといえること、前記FBI研究資料写しには、ベレッタ二五口径の一九一九型ないしこれの改良型のモデルであることが明確なもののデータが六丁分登載されているがうち四丁分のデータは最大値が〇・〇三六インチ(〇・九一四四ミリメートル)以内であり、他の二丁のデータは最小値が〇・〇三八インチ(〇・九六五二ミリメートル)、最大値が〇・四〇インチ(一・〇一六ミリメートル)であってほぼ九五〇型の系統のモデルのデータと同様の分布を見せているといえることを考えると、九五〇型系のモデルについての結論は一九一九型ないしその改良型のモデルについても当てはまる可能性が高く、本件弾丸の発射けん銃はこれらのモデルではない蓋然性が高いと推論することは可能である。その際、前記<1><2>のデータがこのような推論の妨げとなるかであるが、右データは前記FBI研究資料のベレッタ二五口径のデータの中でもかなりかけ離れた数値であることが同資料から読みとれ、D証言も前記<1><2>のデータは九五〇型系のモデルであれば明らかに異常なものと考えられるとしていること、<1>のデータにはモデル名がなく、<2>のデータにはポケットなるモデル名が付されているものの、D証言も、単なるポケットという正式名称ないし愛称のベレッタのモデルは知らないとしていること、同証言は、FBI研究資料のデータ収集上の一般的な過誤の可能性を否定できないとしていることなどを考えると、これらのデータの正確さには疑問の余地が十分あり、Bの使用したとするけん銃が一九一九型ないしその改良型の可能性がないと断じるならばともかく、右の限度での推論は依然として十分可能であると考えられる。また、銃身が変換されている可能性については、D証言において日本国内で押収されたもののうち銃身が交換されたと確認された銃はごく稀にしかないとされているのであるから、理論的可能性にとどまり、右の推論を妨げるものではない。

なお、前記<1><2>のデータや本件弾丸のデータを生み出すことになった原因としては、ベレッタ社が生産の際に用いていた工具の磨耗などの生産工程上の理由を挙げる考えもあるが、D証言の指摘するとおり、これらと主要なデータとの中間のデータが極めて少ないことに照らし採用できない。また、D証言は、ベレッタ二二口径モデル21Aで、せん丘痕幅が平均値一・三六ミリメートルと広いデータのものがみつかったこと(A・B甲一〇三)、通常、二五口径の方が二二口径よりせん丘痕幅が広いと言われていることを指摘する。しかし、このことは、同証言において、本件弾丸のせん丘痕幅のデータがベレッタ二五口径の九五〇型系のモデルのものではないとすることに何ら障害とはなっていないことが明らかであり、また、同証言は、右二二口径モデルのデータの解釈として、一九九二年にベレッタ社が米軍向けに九ミリのけん銃を制作して以来、腔せんの刻み方について考え方を改めたことに基づくことが考えられるとしているから、九五〇型系のモデル以前に生産されていた一九一九型ないしその改良型のモデルについて論じる際には参考とならないというべきである。

(三) 以上によれば、本件弾丸の発射けん銃は一九一九型ないしその改良型のモデルではない蓋然性が高いから、この一点のみをもってB供述は信用できないと結論づけることは相当ではないとしても、十分な裏付け証拠がなければ信用できないとみるべきである。

(四) Bは、A公判における証言を経て、犯行使用けん銃の銃種が深刻に問題とされるようになった後、検察官に対し(A弁一二)、また、自らの公判での被告人質問において、犯行使用けん銃にベレッタという文字や1934という数字が刻まれていたかはっきりしない旨述べるに至ったが、これは自己矛盾を来たし、自らの供述の信用性を否定したに等しい。

2  犯行使用けん銃の形状について

B供述に係る犯行使用けん銃は、前記のとおり、ベレッタという文字と1934という数字が刻まれている二五口径のけん銃であって、これは、ベレッタ一九三四型というモデルのけん銃か、あるいは、一九三四年にベレッタ社が製造したけん銃であって、一九一九型の改良モデルのいずれかであるが、前記D及びA1の各証言、雑誌「GUN」の抜粋資料(A弁一〇、B職一八)によれば、これらのけん銃には、銃把に握り安全装置(セイフティグリップ)なるものがついており、これを手で押さえなければ、弾丸を発射できず、形状としても目立った特徴をなしていることが認められ、使用者としてはその存在に気づくのがごく自然であるといえる。

ところがB証言は銃把に、握り安全装置が付いていたかどうかは記憶していないとしており、また、BがA公判における証言の際、犯行使用けん銃を描いた図面には握り安全装置は描かれていないから、Bが握り安全装置に気づいた形跡はない。

そうすると、この点でもB証言は不自然であってその信用性は減殺されるといわざるを得ない。

3  B供述の発砲姿勢の合理性について

(一) Bは、捜査段階において、発砲時の姿勢に関し、警察官に対しては、C宅の勝手口の付近に立って発砲し、壁に命中させた趣旨を述べ(平成七年三月一七日付け自首調書《B乙一》。同年七月二四日付け警察官調書《B乙六》も同旨とする)、検察官に対し、勝手口のすぐ脇の辺りに行き、両腕を胸の前に突き出すようにして狙いを定め、台所の壁の方に向かって発砲したと述べている(平成七年七月二九日付け検察官調書《B乙一三》)。

他方、B証言によれば、検察官の主尋問に対し、発砲時の姿勢は平成七年八月三一日付け実況見分調書(A甲七〇、B甲五九)の写真<11>、<12>のとおりであるとし、右検察官調書と同様の趣旨を述べるほか、弁護人の反対尋問に対し、以下のとおりであると述べている。

(1) 自分が発砲したとき、門扉は閉じており、弾道はその上を通過するように発砲した。門扉は視野に入ったが、さほど邪魔ではなかった。

(2) 発砲したとき、漆喰の壁あたりを狙ったが、内ポケットからけん銃を出して、門扉に当たらないように構えてすぐに発砲したので、特に慎重に狙いを定めなかった。

(3) 続けて三発くらい発砲したが、発砲したとき、手首が何センチも動くような極端な衝撃はなく、銃口は少し上を向いたが、極端に左右にぶれることはなかった。弾道は門扉の上から一〇センチメートルくらいは余裕があったと思う。

(二) そこで、右のB供述の信用性を検討する。

鑑定人日野文哉作成の鑑定書(A職六、B職二七)によれば、C方の裏口の鉄製門扉の高さは、一五七センチメートルから一五九センチメートルであり、前記実況見分調書の写真<10>においてBが所持するけん銃の銃口は、同鑑定書の鑑定図第1号に表示されたQ1、Q2、Q3、Q4の上方付近に来るものと推測され、A1証言によれば、本件弾丸の最初の着弾点は、A公判第一回検証調書(B関係でも証拠となる。B職一一)別紙見取り図第1図に記載のイ点、ハ点、チ点(同鑑定書のC点、A点、D点)であることが認められるところ、Q1~4の上方に銃口を位置させた場合、理論上、鉄製門扉の上端を通過させてチ点(D点)に到達させるには、銃口の高さは、少なくとも約一五四センチメートル以上でなればならず(銃口がQ3、4の上方に位置した場合)、また、鉄製門扉よりも一〇センチメートル以上の高さを通過させてチ点(D点)に到達させるには、銃口の高さは、約一六八センチメートル以上でなければならない(銃口がQ1、2、4の上方に位置した場合)。

ところで、Aの第四回検証調書(B関係でも証拠となる。B職一二)によれば、Bが靴を履いた状態での身長は、一六二・二センチメートルであることが認められる。

そうすると、前記実況見分調書の写真からも感じられるところであるが、C方に発砲する際に、鉄製門扉がさほど邪魔ではなかったという、B証言は、不自然であると考えられ、鉄製門扉について特段、問題意識を持って供述していない捜査供述もそれぞれ不自然である(なお、当時は夜であるが、現場が真っ暗ではなかったことはBが一貫して述べるところであり、B証言は門扉が閉まっていたことを述べているから、門扉がみえなかったということは考えられない)。

また、前記鑑定書の鑑定図第1号によれば、D点とA点とは、方向角として、約七・二度ずれており、また、漆喰壁の中点であるM点とD点とは、約一四・七度ずれており、漆喰の壁を狙って発砲し、極端に左右にぶれることはなかったとするB証言と矛盾し、かかる供述状況にあることはBの捜査供述の信用性も減殺する。

以上からすると、発砲姿勢に関するB供述はいずれも不自然であるといわざるを得ない。

4  犯行の経緯・状況等に関するB供述の一貫性について

Bが供述するところの大要は、先に要約したとおりであるが、細部においては種々の点で変遷をみせているので、その主要な点について検討しておく。

(一) Oが甲野商事にけん銃を売り込みに来た時期について

Bは、右の点につき、平成七年三月一七日付け自首調書(A弁一六、B乙一)、同年七月二四日付け警察官調書(A弁一八、B乙六)、同月二八日付け検察官調書(A弁二〇、B乙一二)では、平成五年九月にMが甲野商事を辞めた後若しくはそのころのことと述べているが、B証言は、A第二回公判では、平成五年三月のことであり、Cが乙山第一物件を売却する前のことだったと述べ、さらに、A第五回公判では、平成五年中頃から八月ころまでとし、Oのけん銃売り込みとMの辞職との前後関係がわからないと述べているのであるが、Bの各供述は、Mの辞職後、Cをバッドなどで襲撃する仕事が自分に回ってきたが、実際に襲うのは抵抗感があり単に見張りなどをするだけで過ごしていたところ、被告人からけん銃を入手するよう命じられたという趣旨では共通していることに鑑みると、捜査供述においてはOの売り込みはAがけん銃を入手するよう命じ、犯行の重大さが格段にレベルアップする重要な契機となったはずであるから、記憶が混乱してB証言のように変遷するとは考えにくく、この変遷は不自然である。

(二) Oからそのトラックの中でけん銃を受け取った際の状況について

Bは、右の点につき、平成七年七月二四日付け警察官調書(A弁一八、B乙六)及び同月二八日付け検察官調書(A弁二〇、B乙一二)において、Oから自動式けん銃ベレッタ一九三四を受取ると、弾を確認し実包七発が装てんされているのが判った旨述べていたところ、B証言(A第二回公判)は、Oからけん銃を受け取ったとき、その場では、弾倉を確認せず、そのまま内ポケットに入れて会社の方に向かったもので、弾倉を開けなかった理由は、サラリーマンの出社時間で人通りが頻繁にあり、目撃されると困るので、その場で開けるゆとりがなかったからであると述べ供述を変えていたのに、A第四回公判においては、再び、ベレッタを受取ったときに現場で弾を確認した、よく覚えていないが、弾と銃は別々であったと思うが、その場で確認した気がする旨述べるに至っている。

右の捜査供述とB証言は内容が大きく変遷しているが、A第二回公判における供述は理由を伴ったものであって、これが第四回公判でさらに変遷したというのは不審であるが、その点は措いても、けん銃の受領はBにとって緊張を強いられる特異な体験であったはずであり、細部について十分な記憶がないということはありうるが、供述する以上は、その内容は印象的な出来事として記憶されている事柄と考えられる上、実包の確認は重要な事実であるから、この点で大きく変遷するということは、体験供述としては、考えにくいといわざるを得ない。

(三) 犯行直前、C宅近くに自動車を駐車した際の措置について

Bは、平成七年三月一七日付け自首調書(A弁一六、B乙一)、同年七月二四日付け警察官調書(A弁一八、B乙六)において、C宅は住宅密集地にあり、自動車を止めてから、エンジンを切り、付近の様子を見渡してから、人通りが全くないことを確認して自動車から降りてC宅へ歩いて向かった旨述べていたのに、平成七年七月二九日付け検察官調書(A弁二一、B乙一三)においては、人に見つからないように車のライトを消し、撃った後すぐに逃げられるようにエンジンをかけたままにしておき、運転席のドアも開けたままにしておいた旨述べ、B証言も、車のライトは消していたが、エンジンはつけていたと思う、ドアは、開けっ放しではないとすぐ逃げられないと思って、開けっ放しにしておいたと述べ、エンジンを止めたか否かについて変遷を見せているが、B証言は、発砲したらすぐ車に乗り込んで、ヘッドライトをつけずに逃走しようと思いライトを消し、ドアを開けっ放しにすることは現場に行くときから考えていたことである旨も明らかにしている。

B証言によれば、Bは逃走のための諸々の心づもりをして犯行に臨んだことが窺われるが、そうであれば、エンジンを止めたか否かについて記憶の混乱が生じることは考えにくく、この点についての供述の変遷は不自然である。

(四) 犯行直前、駐車後、発砲姿勢を取るまでの経路について

Bは、平成七年三月一七日付け自首調書(A弁一六、B乙一)において、車を停めてから、付近の様子を見渡して、人通りが全くないことを確認してC宅へと歩いて向かった。C宅は、二階建てで、玄関付近まで行き、家の様子を見た、玄関に撃ち込むと危ないので壁に撃ち込もうと考え、玄関に向かって右側の方に回り、鉄製の戸付近からけん銃を撃ち込んだと思う旨述べ、同年七月二四日付け警察官調書(A弁一八、B乙六)においても、車を停めてから付近の様子を見て、けん銃を隠し持ったままC’方へと向かって歩いていった、C’方の様子を見ると玄関とは反対側になる台所のような所の豆電気がついているのがわかった、玄関から右側の方にずっと回り、けん銃を着ていた服の内側ポケットから取り出して、けん銃を発射した旨述べ、玄関の方へ一旦行ったとしていたのに、その後、同月二九日付け検察官調書(A弁二一、B乙一三)においては、車を停めてから、足早にC’方の勝手口の方にある門扉のすぐ脇のところまで行った、付近に人がいないことを確認すると、ポケットからけん銃を取り出し、狙いを定め三発続けて撃ったと述べ、Aの公判においても、犯行当日は、車を降りてからは、勝手口のある門扉までしか歩いておらず、玄関までは歩いていない、前記警察官調書(A弁一八、B乙六)における供述は、記憶の多少の食い違いが、警察官にニュアンスが通じなかったためと思う旨を述べ、変遷を見せている。

右の各供述においては、C方の玄関を確認した後に発砲したのか、それとも、玄関に回らず直ちに門扉の前に立って発砲したのかという点に齟齬が生じているが、前者はCらに弾丸が当たらないようにという配慮をしたという趣旨、後者は自分が捕まらないように早く犯行を終えたいと考えていたという趣旨を述べたものであり、犯行当時、双方の心情を抱いていて矛盾を感じたということは考えられるが、結局、どういう行動をとったのかについて後でわからなくなるとは考えにくく、右の点の変遷は体験供述として不自然であるといわざるをえない。B証言は、前記警察官調書(A弁一八、B乙六)について、多少の記憶の食い違いや警察官にニュアンスが通じなかったことに基づくものと説明するが、信用できない。

(五) C宅の家人の有無について

Bは、右の点につき、C宅の家人の有無についての認識の点において、当初、平成七年三月一七日付け自首調書(A弁一六、B乙一)、同年七月二四日付け警察官調書(A弁一八、B乙六)において、家の中には誰もいないと思った旨述べていたのに、同月二九日付け検察官調書(A弁二一、B乙一三)では、Cの妻はいるだろうと思っていた旨述べ、ところが、B証言は、A第二回公判では、再び、家族で出かけており、妻も含めて留守だと思っていたとし、さらに、A第三回公判では、また、家に人がいると思ったとし、矛盾をつかれると、留守か寝ているかどちらかだと思ったなどと弁解し、大きく変遷をみせており不審といわざるをえないが、B供述はCや家族に危害を与えたくなくて家に発砲したという点では一貫しているから、そのような心情からすれば、家人の有無の認識の点について変遷するのは不自然といわざるを得ない。

(六) 以上のとおり、犯行の経緯・状況に関し、不自然な変遷が多々あることを考慮すると、B供述の信用性は大幅に減殺されるといわざるをえない。

5  なお、Bが、犯行使用けん銃を投棄したとして供述した場所からけん銃が発見されておらず、その入手先の裏付けもないことは証拠上明らかである。

六  以上からすると、B供述には、ほとんど裏付けはない上、自首の経緯や犯行状況に関し不自然な点が多数あること、いくつもの重要な点で不自然な変遷をみせていることからすると、当初の疑問を払拭するに至らず信用できないから、Bの犯人性はもとより、Aの指示による共謀も認定できない。

第五  結論

以上により、被告人両名について、いずれの公訴事実も犯罪の証明がないから、刑事訴訟法三三六条により無罪の言渡しをする。

(求刑 被告人Aに対し懲役六年・弾丸三個の没収、被告人Bに対し懲役四年)

(裁判長裁判官 照屋常信 裁判官 冨田一彦 裁判官 坂本 寛)

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